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創業20周年を迎えて

創業20周年を迎えて

2009年11月1日

代表取締役社長 松本修一

 

 平成元年11月1日に株式会社プレシードを創業して今日で満20年を迎えました。会社は10年続けば一人前といわれる中、20年を迎え、人であれば成人をさせることができたのは創業者として実に感慨深いものがあります。実に多くの方々と出会い、共に考え共に苦労し、支えられてきました。幾多の困難とも出会いました。とてもこれを越えることはできないのではないかと絶望に支配されそうなことも行く度となくありました。しかし、思いを強く持ち、決して諦めなければ道は開けていくことを体験してきました。これが今、私が手に入れた最大の財産かもしれません。

 

 創業の時代からよく口にした言葉に「常に夢を持つこと。志を捨てず難きに就く。」という日本ビクター高柳健次郎氏の言葉がありました。今でもこの言葉は心に刻んで事あるごとに思い出して気持ちを新たにしています。この言葉がなかったら今の私もプレシードもなかったかもしれない位に大切な言葉です。創業のころ、氏は存命でした。いつの日かお会いできたらと思っている内にプレシード創業翌年他界され叶わぬ夢となりました。

 

一緒に仕事した人、講演会、テレビや本、新聞で出会った人たちから多くを学び反省もしながら弱い自分を今まで引っ張ってきました。今はただ感謝でいっぱいです。今も困難の中にいるのは間違いありませんが、過去の体験と実績、会社の内外にいる多くのプレシード支援者の力で次の時代への道を開いていけるものと確信しています。

 

 ここで20年を節目に昔を語り残して置こうと思います。常日頃、変えられない過去を振り返ることを是として生きてきませんでした。過去の栄光や思い出を語るつもりもありませんが、時代背景や経緯を語り書き残しておく必要もあるかと思い、少し付き合ってみてください。

先ず創業前のプロローグ

 1985年(昭和60年)春、勤務していたH社の上司に退職願を提出しました。個人的には3男が生まれる直前の32歳でした。上司より強く慰留され諦めるというより決定を先延ばしにしました。しかし、どうしても思いは断ち難く、11月頃再度辞表を提出し妻への電話などもありましたが、出産休暇中の妻の「やりたいように生きてもらいたい。」との言に説得を諦めてもらいました。「ここで辞めることを諦めたら、きっと将来仕事に行き詰ったりしたときに『あの時辞めておけばよかった』と思うに違いない。」と想像し、決心を変えずに崖から飛び降りる覚悟で1986年一月正式退職となり、何の仕事の準備もなく現有田取締役の兄上と株式会社アリテックを創業し、現有田取締役を社員雇用して私が専務取締役となりました。熊本で技術開発型企業を興したいという実に漠然とした情熱だけ、「こんなに一生懸命に仕事したい人間が上手く行かないわけがない。」という厚かましい思いだけでした。当然、上手く行くはずもなくあっという間に資本金880万円は底をつき給与も持ち帰れない月が続き、私がやれることは元の会社でやっていたことの周辺だけだろうと思いなおし、設備機械の設計や部品加工のブローカー的アルバイトで食を繋ぎました。2年目になると時はバブル景気もあって装置の受注もあり、車一台分のガレージでドリルとサンダーのみの加工機?で設計から完成機納品までを外注頼みで指導しました。見積りもしたことがないひどいスタートでしたが、人件費はタダ、手直しはサンダーとドリルでやりながら先ずは仕事を動かし始めました。

 

 3年経過すると利益は順調に拡大していきましたが、場所も設備も人材も最低限は確保したいという思いから、回路基板開発中心のアリテックより分離独立することとし、高速ICから遠くならない場所で場所探しを急ぎ、熊本IC、御船ICを諦め松橋にオンボロ倉庫を見つけ賃貸交渉をするに至りました。

 

創業

 1989年(平成元年)11月1日、1が続く日を選んで創業日としました。社名は私が英語の“precede(前もって準備する、先行する)”という言葉に「受身にならず市場と顧客に先手で対応したい。」と願いを込めて株式会社プレシードと決めました。

肥後銀行川尻支店に10月31日、親からの借金、保険、積み立ての解約、出資者を集めた1000万円を資本金として振り込んだ時のことを覚えています。「今からどこへ向かうんだろう、やっていけるのだろうか」という思いは、ノイローゼになり発狂するほどの緊張感でした。“技術者が県外へ就職しなくても世界の先端を競える会社を創りたい。”“社会が欲する技術商品を企画して世に送り出したい。”“世渡りが下手な人間でも一所懸命仕事をすれば安心して生活の基盤を創り皆が自慢できる会社を創りたい。”という思いだけが不安定になりそうな精神を支えていました。

 私を含め男性4人、女性1人のスタートで、最初の仕事は床のペンキ塗り、約300㎡のスレート葺きの工場は夢の工場でした。自慢の工場でしたが人に見せると目を輝かせてくれないのが不思議でしたが、今思えば実にオンボロ鉄工所以上のものではありませんでした。

 幸い、仕事は中央理研という会社から半分、残りをオムロン、京セラ、松本商店などから請けて先ずは順調な滑り出しでした。仕事が完工したら皆で街に出かけ打ち上げしたりで一体感のある楽しい時代でした。

 創業3年後、大不況となり稼いだ金も底をつき、初めて借金を経験することとなり、以後借金に追われながらの経営から脱することはできないで今日に至っています。しかし、その2年後、新たな事業展開で業績を回復させ1994年12月現本社社屋を竣工させ、忘れもしない1995年1月18日(関西淡路大震災翌日)お披露目の宴を開き新たな地で20名の社員で業務を開始しました。その頃の中心装置は病院内外の調剤薬局の自動設備でリフターやコンベア、それに開発仕分装置でした。今思えば、厳しいつらい仕事が後の会社の機能の成長になっているというのが20年間経営しての感想です。会社も人も“逆境こそ最大の成長の恩人”と思うこのごろです。

 

エピローグ

 会社を経営していると、思ったようにならない日々の連続と感じることが殆どです。それでも20年という長い期間を振り返ると遅い歩きと成長ではあるけれど、創業の時の“熊本に技術開発型の会社を設立し残す”という思いは、蛇行しながらも進んで行っているような気がします。「研究開発部の実務最高責任者として思う存分開発に没頭したい」という私個人の夢はかなえられないかもしれませんが、公の夢、「次世代の技術者が夢の実現を目指すフィールドを熊本に残す。」という夢は叶えられると信じています。

 プレシードは決して一部の人たちが経営する場に労働者として働く会社造りを目指したことは一度もありません。働く人がプレシードの機能・実績を使って自分の夢の実現を目指すフィールドとして成長させたいというのが私の創業者としての夢です。新しいこと、未知のことに挑戦するということは不安と失敗の連続です。それでも其れを怖れず主体者(主人公)として受止め、失敗から学び成長すればそれこそ人生の最大の収穫物と信じます。

 “汝、狭き門より入れ”困難を通り抜けた時の一瞬の感動はそこまでの辛かった日々を大切な思い出に変えさせてしまう力があります。楽な道を進んで大きな感動が待っていたことは殆ど思い出せません。(失意の日が待っていた思い出はあります。)私の人生はそういう意味で感動に満ちていることが何よりの自慢であり救いです。今からも多くの感動が待っていると思っています。その前に立ちはだかる地獄のような苦しみもその感動に比べれば取るに足らないものと思うことにしています。

 

 感動を求め、自らで感動を創造し、周りにも“感動を創造する”会社であり個人である場がプレシードとその働く社員であることを願っています。

 

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