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参禅記 その21

参禅記 その21

2017年7月25日起筆

 

 真冬の早朝坐禅は背筋も凍るような思いをするが、真夏の閉め切った坐禅堂は蒸し暑く汗が噴き出る。「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もおのずから涼しい」と古来禅師は言うが、未熟な私には涼しい境地には死ぬまで到達できないだろう。それでも気持ちが静かな時には汗が気にならないし出る汗の量も少ないが、気持ちが少し乱れると汗が噴き出てしまうという体験をする。 苦しいとか、まだ終わらないのかと思ってしまうと、吹き出る汗が目に流れ込みそうになる。

 坐禅の瞑想とは目を閉じることではない、常に半目で一点を見るとはなく見つめること。目を閉じれば妄想の世界に入り、居眠りの世界に入ってしまう。坐禅はあくまで何も考えない状態を作る事だが、これが難しい。考えまいと思うと考え事が頭に沸く、人間自分さえコントロールできない生き物だとつくづく壁を眺めて思うことが多い。ならば逆に多くの事に気を向けてやろうと虫の音を聴けば、遠くを走るトラックの音は聴こえず、トラックの音を聴けば虫の音は聴こえないという体験をする。ましてや考え事をすれば虫の音もトラックの音も聞こえない。

 午前五時を過ぎるとセミの声が始まり、今日の命を繋ぐ活動が始まったと気持ちがそこに向いてしまう。4時半からの坐禅でこの時間になると気持ちが乱れると姿勢を保つ苦しさに襲われる。尻に敷いた座布団の位置が僅か数センチでも塩梅が悪いと背骨が痛みを感じたり腰に痛みを感じたりして気持ち乱れ汗が噴き出る。

 日頃、ソファーに寝転んだり、自由な姿勢で空調の効いた部屋に居てテレビを見たり新聞を開いているが、その数センチの自由度にある幸せに気づきもしない。今日も立って歩いて食べて寝ることが出来る大きなその幸せの中に生きている。たまには気づかねばもったいない。

 禅堂で姿勢をそのまま保ちながらも、経本をもって読経が始まると苦しさから解放される。般若心経は少々学んだこともあったが、「参同契」、「宝鏡三昧」など意味も分からず唱えるうちに四年が経った。敢て学ぶ機会を求めないで過ごした不埒な私にも、次第に内容もおぼろげに見え始める。ナルホド、深い、学ばねばとその場では思う。

 坐禅を終えて回廊を歩く時、その動きで首筋の汗が乾き一瞬の涼しさをもたらす。この小さな些細な幸福感を感じる時、人生の幸不幸は外にあるのではなく自分の心の内の何処にでもあるのだと感じる。一服の茶を飲むことに深い喜びも感じることが出来る日々となれば、死中活あり苦中楽あり忙中閑ありの瞬間を楽しむ人生を満喫できそうだが、まだまだ道遠しだ。

2017年8月2日擱筆

 

 その後、寺より電話があって、8月中の早朝坐禅は中止する旨の電話があった。どこかでその知らせを喜んでしまう自分がいる。子供の頃、剣道部の練習中止に喜んでいたあの頃と何ら進化しない自分がいる。思わず一人苦笑いだ。

 

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