「参禅記その15」
2015年4月27日
この冬は出張も多く、極寒の早朝坐禅をあまり経験することなく春を迎えた。あっという間に桜も散り、季節は移り、寺の境内も新緑が濃く、早朝の鳥の声も盛んになってきた。
最近は坐禅を無理して結跏しないで半跏、すなわち胡坐かくようして座っている。勿論それでも足は痺れるし、姿勢取り続けるのも辛い。特に姿勢を保つのがつらいのは歳のせいだと思うと、老化は駆け足のように忍び寄っている。遣りたいことを急がねば悔いを残しそうな年齢となってきた。
壁に向かっていて最近気づいたことだが、気持ちに悩みや重いものがあるときは坐禅がさほど苦にならず、悩み事少なく楽しく生きているときは妙に坐禅には痛みと苦しさ感じる。勿論、坐禅が違うのでは無く、気持ちのありようで痛みも相対的なものだということに気づいた。
ちなみに四苦八苦は生労病死の四苦と愛別離苦( 愛する者と別離すること)、怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会うこと)、求不得苦( 求める物が得られないこと)、五蘊盛苦(人間の肉体と精神が思うがままにならないこと)を八苦として四苦八苦というらしい。
仏教がいう人の力でどうにもならない苦しみを、それをあるがままに受け入れ、気持ちの持ちようでは減ずることも出来るということの片鱗をも感じた。(笑)
さて、今度の坐禅は痛み多い坐禅だろうか、痛み少ない坐禅となるだろうか。
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