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参禅記 その14

参禅記 14

2014年9月27日

 
やっと坐禅も虫の声聴く涼しい季節となった。久しぶりに参禅レポートを書いてみたくなった。坐禅に通い始めてそろそろ一年半となる。最近は出張も多く体力の陰りも甚だしくて、月に3、4回程度の参禅となっている。終えた後の足の痛みがひどい時もあって少々敬遠気味でもあったが、今日10日程度回復を待って行ってみると気持ちよく終えてホッとした。
参禅者が普段でもサボりがちな私も含め2、3名のことが多いが、なんと今日は私だけだった。坐禅や本堂での読経など約100分の務めを終えてお茶と菓子を戴きながら住職らと世間話20分が定番コース、今日は孤独な修行だった。聴くところによれば常連の二人が入院とお遍路に行って暫く欠席となるらしい。次回からは私が行かなければ参禅者なしで住職と禅僧と二人の朝のお勤めとなる可能性大なので、あまり休めなくなった。誰か坐禅に興味ある人いればぜひ参加あれ。
さて、常連者は私程度の出席率も含めても5名程度。一人は正体不明の大柄の謎の20代若者、他は何れも年配の経営者、女性もいる。皆、自分を見つめ何かを見つけたい、違った境地を体験したいということだろうか、ほとんどお互いのことを語ることもない。私も何故参禅するのか、貴重な時間を費やし足の痛みに耐えながら…。悟りとは程遠いがまだ体験していない未知の境地や自分と出会いたいというところか。
経営者が多いのも分かるような気もする。日頃、自分を殺して走り回っていてふと自分を振り返った時、自分を確かめてみたくなるのがきっかけのような気がする。経営者をしていると時々本当の自分は一体どれなのか分からなくなって自分を見失うことも多い。皆、自分が何者なのか、自分の人生はどうあるべきか真剣に壁に対峙して探しているのだと思う。
禅の言葉に不立文字という言葉がある。真実は文字では表現できない、文字で書いたものは所詮真実を投影した陰でしかない。実態は体験して感じるしかない、バーチャルの戦争ゲームで戦争を体験できたと思うことがあり得ないように、実態は本や話では伝えられない、だから只管坐禅して自分と向き合わなければ入り口まで導くことは出来ても教えて得られるものではないということのようだ。人は言葉や文字を覚えたが、言葉や文字で真実を伝えることが出来るというのが錯覚だし、伝えることが出来たという思いから誤解や対立が生まれる。
イスラム圏とキリスト教との確執も相手に自分たちを伝えているのに理解しないのは相手が間違っていると思うことから始まるが、真実は伝わっていないのだ。どちらも十億人以上の人間が長い歴史の中で守ってきた戒律と教えだ、一方の立場を出ずして理解できるはずはない。話を聴き文字を読んで理解したというより、想像は出来ても理解できていないと思うべきだ。人間社会は理解していると思う驕りから誤解と対立が生まれる。信じあうことは出来ても理解しあうことは難しいという前提から理解が始まる。世界平和も理解できない部分があっても信じあうことは出来るということから始まる。知らずを知る(知不知)とはそういう事のような気がする。坐禅しながら邪念でふとそんなことも思った。

 

 

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